カランカランカラン 「マスター、ドライマティーニをちょうだい」 「失礼ですがレイディ、うちはポン酢専門店ですので……」 「あら、失礼。それじゃあ、ポン酢をちょうだい。大根はダブルで」 「かしこまりました」 とくとくとく……シャリシャリシャリ…… コトッ 「どうぞ」 「いただくわ……あら、この大根、甘いわ。マスター、皮を厚く切ったのね」 「お口に合いませんでしたか?」 「ううん、いいの。ちょうど甘えたい気分だったから」 「お気に召しましたら光栄です」 「フフッ……優しいのね。なんだか今夜はマスターの優しさに溺れちゃいそう」 「時には、そういう日も、あってもよろしいかと……私にも覚えのあることです」 「マスターにもそんなことが?」 「私も人間ですから。苦い過去の一つや二つはあるものです」 「聞きたいわ、その話」 「いえ、人に聞かせるようなお話ではありませんから……」 「つれないのね。やっぱり世の中ってそんなに甘くないのかしら」 「……仕方ありませんね、今日だけですよ」 キュッキュッ…… あれは、どれくらい昔の話になるのですかね。私がまだ本当に幼かったころの話ですよ。自分がどれくらいに幼いかもわからないくらいに幼かったころの、ね。 きっかけは、友人とのくだらない言い争いでした。 北の海の道の話、ご存知ですか? そう、凍てついた北の海には道がある、という、あのお話です。それが本当の話かただの噂か……私と友人がはじめた言い争いは、やがてどちらもひっこみがつかなくなってしまたって「それなら二人で確かめに行こう」という話になりまして…… はは、馬鹿らしい話ですよね。あんな噂を信じるなんて。若かったんですよ、本当に…… 北の海にたどりつくまでには、さまざまな困難がありましたが、長い旅路の末、私たちはついに北の海にたどり着きました。そして…… 信じてくださらなくて結構ですが、見つけたんです。北の海の真ん中に、一つの道を。 私はすっかり興奮してしまい、すぐに道を行こうとしましたが、友人は止めました。「どんな危険賀あるかもわからない」と云ってね。私は友人を臆病者と罵りましてね、一人で道へ飛び出しました。どうしても知りたかったのですよ。 北の海の道の先になにがあるのか……その先にある土地を調査したい……そう思ってしまったのですよ。 私が進みだすと、友人もついてきました。いつもそうでしたよ。私と友人は、いつでも一緒で、べつべつになることなんて、考えたこともなかった。 どれくらいの間でしたでしょう……ずいぶんと進みました。二人とも疲れ果てていました。どちらともなくやがて道に座り込んでしまっていました。 そんな時です。顔をあげた友人が云いました「あれはなんだ」 私はそちらの方向を見ました。それがなにかはすぐにわかりました。 「ハムだ」 道のはるか先にハムが、日本のハムが落ちていたのです。 興奮した私はハムに向かって走り出しました。あの時の私にはハムしか目に入っていなかったんですよ。昔から、そういう思慮の足りないでしてね……目先の欲望にすぐに飛びついてしまい、本当に大切なものを見失ってしまう…… ボカン……って音がしましてね…… 最初はなにがおこったのかわかりませんでした。それからしばらくして、自分の近くで爆発が起こったのと、自分が突き飛ばされたのだということがわかりました。 ええ、吹き飛ばされたのではなく、突き飛ばされたのですよ。 友人が、罠にかかった私を突き飛ばして助けてくれたのです。 私は助かりましたが、身代わりになった友人はぼろぼろでした。すぐに駆け寄りましたが、もう助からないことは明白でした。なのにね、友人は「はは」って笑ったんですよ。 笑ってこう云ったんです「お気に入りのCOSTUMEがズタボロだ」って。 それが最後でしたね。あいつの言葉を聞いたのは―― 「大切なものを失うまで気づけなかった……馬鹿な話ですよ」 トントントン――コトッ 「よろしければどうぞ」 「これ……ハムじゃない。もしかして……」 「なにも云わずに召し上がってください」 「……おいしい」 「それが、あいつにとってもなによりの言葉ですよ」 「ねえマスター、その人って、男の人?」 「さあ、それはどうでしょうね」 「もしかして、まだその人のこと、忘れられないんだ?」 「はは、勘弁してくださいよ」 「マスター、ポン酢をもう一杯。ストレートでね。ふふ……今夜は泣けそう」 BARうなぎのねどこの夜は、今夜もまた更けていくのであった。
「まったく、いやになっちゃうわね」 「どうなされましたレイディ」 「またくだらない男にひっかかっちゃってね。これも女の業ってやつかしら……マスター、ポン酢のストレート、ロックでお願い」 「いえ、レイディ。今日はシングルをおすすめいたします。水道にいいカルキが入ったんですよ」 「カルマを洗い落とすにはカルキを……ってこと? ふふ、いいわ、シングルでお願い」 「かしこまりました」 シャカシャカシャカ……コトッ 「どうぞ」 「ふふ……鉄くさいわ……都会の味ね」 「それでも我々は都会にしか生きられない……ちがいますかレイディ」 「そうね。その通りだわ。隠したりごまかしたりしても、しょうがないものね」 「レイディ、私は素敵だと思いますよ、あなたのそういうところが」 「ありがとうマスター。いつも優しいのね。その優しさに甘えて、ひとつ聞いていいかしら」 「私にできることでしたら」 「マスターにしか出来ないことよ。あの壁……あそこにかかっているアレ……あの黒い紙、なんなのかしら? いつも気になってたんだけど。ただの黒じゃないわね。すこしだけ、緑がかっていて……」 「ああ、あれですか――そうですね、そうですね、若さの形見……とでも云いましょうか」 「またそうやってごまかすのね。マスターって、いつもそう。つれないわ」 「隠しているわけではありませんよ。ただ――情けない話ですからね。いいでしょう。お話しますよ。私の若さ、その最期をね」 ディープ・クライシス、という言葉をご存知ですか? 知らないのも無理はありません。一昔前、冒険家の間でのみ、有名だった話ですから。 ディープ・クライシス――頭文字をとって巷ではDCと呼ばれていました――それは、幻の海溝の名前です。 世界一深い海溝はご存知ですね? そう、マリアナ海溝です。その最深部は10911mにもなると云われていますが…… もし、もしですよ……そのマリアナ海溝よりもはるかに深い海溝が存在するとしたら――どう思われます? しかもそれが、数年に数日しか姿をあらわさない幻の海溝だとしたら? そんな噂を聞いたら、あなたはどうされますか? バカらしい、そう一笑に付すことは誰にでも出来ますし、ほとんどの人間がそうしました。ですが、信じる人間もいました。私もその一人でした。 私を含めた愚か者たちは、噂の真相を求めるため、幻の海溝を探しました。そして――信じられないかもしれませんが、見つけたのです。幻の海溝DCを。 DCは、私たちの見守るまえで、ゆっくりと海底に地割れをつくり、ひろがって行きました。私たちはすぐに深度の調査をはじめました。 深度の調査というのは、簡単に説明すると、錘をつけたケーブルを海溝に沈めていくという方法で行います。我々はケーブルを三万m用意しました。そう、マリアナ海溝の三倍です。 調査は数日にわたりました。何日も何日もかけて、ゆっくりと下ろしていくのです。 ケーブルが一万mに達したとき、我々は自分たちの発見に狂喜しました。 ケーフルが二万mに達したとき、我々はその深さに疑問を感じました。 そして、ケーブルが三万mに達したとき、我々は恐怖していました。そして、DCに関する、もう一つの噂を思い出しはじめました。 その海溝は、異世界につながっているのだという噂を…… 出来の悪いホラー映画のようだと気にもかけなかった噂が、急に我々に真実味をもってせまってきました。なぜこの海溝がディープ・クライシス――《深淵から来る危機》と呼ばれてているのか…… 我々はケーブルをまきあげることにしました。異変に気がついたのはその時です。 ケーブルが巻き上がらないのです。水圧のため? いいえ、水圧に関してはあらかじめ計算されています。海底に引っかかった? いいえ、錘は底にたどりついてはいません。 では、なにが、巻き上げを邪魔しているのか? 恐慌状態におちいった我々はケーブルを切断することにしました。しかし、もう手遅れだったのです。 探索船が揺れました。気がつくと、海面が激しく波打っていたのです。空は晴れているというのに、波はどんどん高くなっていきました。 まるで、海底から、なにかとてつもなく巨大なものが、すさまじい勢いであがってきているかのように―― 混乱して甲板に出た私が、次の高波にさらわれて海に落ちたのは、むしろ幸いだったのかもしれません。船の最期を見ずに済んだのですから…… 次に気がついたとき、私は見知らぬ船の客室にいました。洋上をさまよう私を、とおりがかった船が発見し、助けてくれたのでした。そのため、私は無事に帰ってこれたのです。 私の乗っていた船は、その後、発見されていません。仲間もみな、行方不明……おそらく、船が沈んだときに亡くなってしまったのでしょう。 その後、DCの調査を考えたことはありません。おそらく、もう見つけることもできないでしょう。それに――見つからない方がいいのです。 ええ。私は見てしまったのです。 高波にさらわれ、海に放り投げられたのち、朦朧とする意識のなかで、たしかにみたのです。 海底よりあらわれたなにかが――なにかとしか表現できぬほど異形の姿をした巨大な《深淵よる来る危機》が、私の仲間をその無限の腕に捕え、海底へと連れ去っていく姿を…… そのとき、私は知ったのです――あの無限の海溝こそが、かの者の棲み家、かの者のマイルームであったのだと…… 「こうして、私は未知なるものを探索することの恐怖を知り、尻尾を巻いて逃げ帰って、ここでこうしているわけです。若さを……失ったのですよ……」 シャカシャカシャカ……キュッキュッ 「怖いわね……なんだったのかしらね、それ」 「さて、なんだったのでしょうね。きっとねわからない方がいいのですよ。そういうことは、世の中には存外に多いものです」 「都会には闇があるから魅力もある……世の中って、そういうものなのかもしれないわね」 「至言ですね、レイディ」 「それで、あの黒い紙は結局なんなのかしら」 「ああ、その説明を忘れていましたね。――海上をただよっていた私が発見されたとき、どこをどう流されたのか、私の全身は夥しい量の海藻に包まれていたそうです。その海藻をはがして集め、板状にして天日で干したものが、あの黒い紙です」 「それじゃ、あの紙って」 「ええ、ご覧のとおり海苔です」 「ふふ、このお店、磯のいい香りがすると思ったら、そんな秘密があったのね」 「恐縮です。話を聞いてくれたお礼に、レイディ、どうです。なにか食べませんか? よければおごりますよ」 「あら、嬉しいわ。それじゃお願いマスター」 「それでは早速――ところで、さっきの話にはもう一つ後日談がありましてね」 「なにかしら」 「あれ以来、朝目覚めると、私の身体はいつも海藻に包まれているのですよ。不思議な話です」 「あら、マスターって、冗談も云うのね」 「おや、冗談だとわかってしまいましたか。つまらなかったですかね。――どうぞ」 コトッ 「あら、おにぎり。あたし、このお店のおにぎりって大好きよ。海苔がすごくおいしいのよね」 「ありがとうございます。なにせ、うちのは《特別》な海苔ですから」 かくしてBARうなぎのねどこには戦慄の夜が訪れた……
この辺に紹介文とか。希望者から入れていきます。
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